Mag-log in水曜日の午前十時、彩乃からメッセージが来た。
「今日の十二時、サイト公開します。岸谷さんのおかげです。ありがとうございました」 沙耶はラップトップの画面から顔を上げて、スマートフォンを見た。 今日だったか、と思った。 彩乃のブランドサイトのリニューアル。公開日は先週のうちに決まっていた。でも今朝は神崎への返答資料の整理で頭がいっぱいで、失念していた。 「ありがとうございます。うまくいくといいですね」と返信しようとして、止まった。 うまくいくといいですね、は他人事みたいだ。 少し考えて、こう打った。 「公開、楽しみにしています。きっと届きます」 送信して、ラップトップに向き直った。 神崎からのフィードバック資料が届いたのは、その三十分後だった。 件名は「ブランドガイドラインについて」。 開くと、資料は十二ページあった。 沙耶が納品したデザインに対して、神崎が一つ一つコメントをつけている。修正依頼ではなく、確認と提案の形式だった。「ここはこういう意図で合っていますか」「この方向性でブランドブックに展開する場合、どう考えますか」。 問いかけの形で来ている。 答えを押し付けない。沙耶の判断を、先に聞いている。 沙耶はページをめくりながら、じわりと何かを感じた。 佐伯のやりとりとは、何もかもが違った。修正の意図を説明しない、プロならわかるはずという前提で来る、気に入らなければ「違う」の一言で戻ってくる──あの感覚と、今手元にある資料は、同じ「仕事のフィードバック」のはずなのに、まるで別の言語で書かれているようだった。 仕事って、こういうものだったんだ。 正確には、こういうものであってもいいんだ、だろうか。 沙耶は一ページ目に戻って、もう一度最初から読んだ。 昼の十二時五分、彩乃からメッセージが来た。 「公開しました!!!」 絵文字が三つついていた。彩乃からのメッセージに絵文字がつくのは、初めて見た気がした。 沙耶はURLを開いた。 自分が作ったサイトが、インターネットの上に存在している。それは何度経験しても、少し不思議な感覚だった。自分の手を離れて、世界に出ていく。誰かの画面に表示される。 トップページが読み込まれた。 白とテラコッタの配色。余白を広く取ったレイアウト。大きな写真と、少ない言葉。 「自分のために使う時間を、特別に」 あのとき彩乃が言った言葉を、そのままキャッチコピーにした。彩乃が最初に「とにかくかわいく」と言っていたころには、たぶんどこにもなかった言葉。何度か打ち合わせを重ねて、彩乃自身の中から出てきた言葉。 それを、沙耶はデザインに乗せた。 きれいだと思った。 自分の仕事を、またそう思った。 午後、神崎のフィードバック資料への返答をまとめながら、沙耶はときどき彩乃のサイトをリロードした。 特に意味はない。ただ、見たかった。 三時過ぎ、彩乃からまたメッセージが来た。 「岸谷さん、問い合わせ来てます。公開から三時間で四件」 沙耶は手を止めた。 「それはすごいですね」と返した。 「すごいのは岸谷さんのサイトです。うちのインスタのフォロワーが二時間で三百人増えました。なんでこんなことになってるんだろう」 沙耶は画面を見つめた。 三百人。三時間で四件の問い合わせ。 数字の意味がわかる。小さなブランドにとって、それがどれだけのことか。 「サイトのデザインが、ブランドの世界観を正しく伝えられたんだと思います」と返した。 「伝えられたのは岸谷さんが引き出してくれたからです。私、最初にとんでもない発注してたじゃないですか。予算は抑えたいし、イメージ通りにしてください、って。今思うとひどい」 沙耶は少し笑った。 「最初の発注、覚えています」 「あのとき嫌だったでしょう」 正直に答えようか、少し迷った。 「……少し、困りました」と打った。 「ですよね! 本当にすみませんでした。でも岸谷さん、嫌な顔一つしないで向き合ってくれて」 嫌な顔はしなかった。でもそれは、できなかったからかもしれない。断れなかったし、困っていると言えなかった。今の沙耶には、あのころの自分がどこまで「向き合っていた」のか、どこまで「ただ従っていた」のか、正確にはわからない。 でも結果的に、いいものができた。 それは、本当のことだった。 「また一緒に仕事できたら嬉しいです」と沙耶は返した。 「絶対にします。次はちゃんとした発注しますから」 彩乃の返信に、また絵文字が三つついていた。 夕方五時、沙耶は神崎への返答メールを書き終えた。 フィードバック資料の十二ページ、一つ一つに答えた。「おっしゃる通りです」だけでは終わらせなかった。「ここはこういう意図でしたが、ご指摘を受けてこう修正します」 「この箇所については別の方向性も考えられます、どちらがよいでしょうか」。 自分の意見を、入れた。 送信ボタンを押した。今日は迷わなかった。 六時過ぎ、達哉が帰ってきた。 「おかえり」 「ん」 達哉はスーツのジャケットをソファに投げた。沙耶は夕飯の準備をしながら、今日一日を頭の中で整理した。 神崎への返答を送った。彩乃のサイトが公開された。問い合わせが四件来た。インスタのフォロワーが三百人増えた。 自分の仕事が、誰かの世界を少し変えた。 「今日、仕事どうだった?」と聞いてみた。 「別に」と達哉は言った。「そっちは?」 形式的な問いだとわかっていた。でも沙耶は少し考えて、答えた。 「担当してたサイトが今日公開で。反響が良かったみたい」 「へえ」 達哉はスマートフォンを見たまま言った。 「誰でもできることじゃないの、それ」 沙耶は鍋をかき混ぜながら、その言葉を聞いた。 以前なら、胸に刺さった。「そうかもしれない」と思った。でも今夜は──刺さる前に、何かがあった。 問い合わせが四件来た。 フォロワーが三百人増えた。 神崎は「完璧です」と言った。 彩乃は「すごい人じゃないですか」と言った。 誰でもできることだったら、あの数字にはならない。 沙耶はそれを口に出さなかった。達哉に証明しようとは、もう思わなかった。ただ──刺さらなかった。それだけで、今夜は十分だった。 「ご飯、あと少しで」と言った。 達哉は「わかった」とだけ答えた。 夜、布団に入って、沙耶はスマートフォンで彩乃のサイトをもう一度開いた。 「自分のために使う時間を、特別に」 白い画面に、その言葉がある。 自分のために。 いつから、その言葉が自分と遠くなったんだろう。仕事は誰かのため、家庭は達哉のため、謝るのも誰かのため。気づいたら、「自分のため」という概念が、日常のどこにもなかった。 彩乃はあのキャッチコピーを自分のブランドの言葉として選んだ。でも今夜の沙耶には、それが彩乃だけに向けられた言葉には見えなかった。 自分のために使う時間。 それを、持っていいんだろうか。 答えは出なかった。 でも、問いが生まれた。 それだけでも、昨日と今日は違う。 スマートフォンの画面を閉じた。 暗くなった部屋で、達哉の寝息が聞こえている。 沙耶は目を閉じた。 明日は、また仕事がある。神崎のブランドブック。彩乃の次のステップ。それから──まだ名前のない、次の何か。 少しだけ、楽しみだと思いながら眠りについた。十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見
珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残
誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ
父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚
画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」
思ったのは、特別な瞬間ではなかった。木曜日の午後、寝室の隅のデスクで作業をしていたときだった。神崎から送られてきたブランドの資料を開いて、コメントを書き込もうとした瞬間、達哉が部屋に入ってきた。「あ、ごめん、邪魔した?」「大丈夫」と沙耶は答えた。 達哉は特に何をするわけでもなく、クローゼットから何かを取り出して、また出ていった。それだけのことだった。 でも沙耶は、達哉が入ってきた瞬間に画面から目が離れたことに気づいた。集中が、糸を切られたように途切れた。達哉が何も言わなくても、その気配だけで、沙耶の思考は一度止まった。 作業部屋があったら、と思った。思ってから、その考えが思ったより自然に出てきたことに、少し驚いた。その夜、夕飯の片付けが終わった後、沙耶は達哉に話した。「ねえ、ちょっといい?」「なに」達哉はソファに座ったまま、スマートフォンを置いた。話を聞く体勢になった。それは悪くない兆候だった。「仕事部屋、作ってもいいかなって思って」「仕事部屋」「今、寝室のデスクで作業してるんだけど、集中できなくて。納戸を片付けたら、デスクくらい置けるんじゃないかと思って」達哉は少し考えるような間を置いた。「どこに作るって?」「納戸」「俺の荷物があるけど」「片付けるの、手伝うよ。段ボールに入れて、押し入れに移せば──」「別に今のままでいいじゃん」それで、終わった。







